2015年7月2日木曜日

広島のこと

初めての広島訪問。
原爆ドーム、平和記念資料館には、必ず時間を作って行きたいと
思っていました。
会期中でしたが、24日の午前中だけ時間をいただき、行ってきました。

広島市内には、路面電車が頻繁に走っています。
レトロな車両を見つけました。

 
原爆ドームです。
原爆ドームは、1915年に広島県内の物産品の展示・販売をする
施設として建てられました。
正式な名前は、「広島県産業奨励館」です。

 昭和20年8月6日午前8時15分、広島県産業奨励館から南東約160
メートル、高度約 600メートルのところで、落とされた原子爆弾が
炸裂しました。
爆風の圧力により、建物は爆風と熱線を浴びて大破、天井から
火を吹いて全焼しました。
爆風がほとんど垂直に働いたため、本館の中心部は残ったそうです。
しかし、館内にいた人は全員、亡くなりました。
戦後、旧産業奨励館の残骸は、頂上の円蓋、鉄骨の形から、
原爆ドームと呼ばれるようになったそうです。

当時の写真もありました。


原爆ドームの横で、人が集まっていました。

原爆ドームの模型が造ってありました。
後ろが広島県産業奨励館だったころ。

広島県産業奨励館の写真。

被爆した瓦がありました。

外国人観光客にぼろぼろになった被爆者健康手帳を見せながら、
英語で説明している方がいました。
三登浩成さん。
三登浩成さんは、お母さんの胎内で被爆されたそうです。
広島の真実を知ってほしいと、雨の日以外は、朝9時~夜まで
毎日ここで説明をされているそうです。
私も1時間も、お話を聞かせていただきました。

原爆ドームからこの川を渡ると、平和記念公園があります。
この川は、 熱線や放射線、爆風で傷ついた多くの人たちが
水を求めて亡くなった川・・・。

平和記念公園にある、原爆の子の像です。
被爆による白血病で亡くなった佐々木禎子さんをはじめ、
原爆で亡くなった多くの子どもたちの霊を慰め、
世界に平和を呼びかけるために、創られたそうです。




平和の灯。
この火は、1964年8月1日点火されてから、ずっと燃え続けているそうです。
「核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けよう」という、
反核悲願の象徴だそうです。
台座は、手首を合わせ、手のひらを大空にひろげた形だそうです。

平和の灯は、平和記念資料館~原爆ドームまでを一直線で結ぶ
中心にあります。

平和記念資料館に入りました。
毎日、多くの人が訪れています。

落とされた、原子力爆弾。

赤いマルが、投下炸裂地点だそうです。

亡くなった学生さんたちの遺品がたくさんありました。
学生さんたちは、学徒勤労動員と呼ばれていました。
学徒勤労動員とは、戦争で使う武器や、軍隊の食料生産のために、
働いていた学生たちのことです。
見ていて、苦しくなりました。


広島に原爆が投下されてから、今年で70年です。
広島の人は、もう70年・・という人が多かったです。
初めて広島に来た私は、まだ70年なんだ・・と思いました。

この平和記念公園の下には、身元がわからず、そのまま埋められた
人たちが、たくさんいるそうです。
その人たちは、今は、公園の木や草花となって、生きています。

広島では、「平和」という文字を、ものすごくたくさん、見聞きしました。
平和フェスティバル、平和イベント、平和コンサート・・・。
でもその中で、平和の重みを感じている人は、どのくらいいるのでしょう。
「平和」・・私もしっかりと考えていきたいと思います。

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