昨日2日、函館から奥尻島に向かいました。
・・しかし、あいにくの雨というか、嵐。
奥尻島には、飛行機で行くか、フェリーで行くかのどちらかです。
フェリーのほうが、欠航になることが多いとのお話でしたので、行きだけ、
飛行機で行くことにしました。
2日は、夜講演会があるので、なんとしても、その時間までには、奥尻島に
入らなければなりません。
函館空港から奥尻空港までの飛行時間は30分。
しかし、昨日は雨も風も強く、厚い雲が低い位置まで降りてきていたため、
条件付の飛行となりました。
(条件付とは、もしも奥尻空港に降りれなかった場合は、函館まで引き返す
というものです)
飛行機はプロペラの小さな飛行機でした。
中の様子です。
覚悟を決めて乗り込みました。
予定時間どおり、飛行機は飛び立ちました。
その後は・・ただ、真っ白い雲の中を突き進むだけ。
横にたてに、もうもうもう、揺れる揺れる!!
もう、気持ちが悪くて、目を開けられませんでした。
奥尻空港上空を何回か旋回して、何とか着陸することができました。
よかったのですが、私は気持ちが悪くて、すぐに立てませんでした。
フラフラになりながら、奥尻空港から出ました。
奥尻空港の看板です。
かわいい看板。これは、空港職員さんたちの手作りだそうです。
季節ごとに、看板が変わるそうです。
奥尻空港では、奥尻小学校のPTAの方が、お迎えにきてくださっていました。
ただ、私の顔が、真っ青だったので、少し空港で休憩してから、車に乗せて
いただきました。
講演会は、18時からですので、まだ時間がありました。
宿に荷物を置きに行く前に、「奥尻島津波館」に 寄ってくださいました。
奥尻島は、1993年・・今から22年前の7月12日に、大きな地震が起きました。
津波の被害もすごく、198名の方が亡くなりました。
このあたりも、当時は民家がたくさんあったそうです。
すべて、津波で流されてしまいました。
地震のことが書いてあります。
「北海道南西沖地震」です。
当時、この震災を体験された方が、館内を案内してくださいました。
地震が起きてから、津波到達まで、3分~5分だったそうです。
あまりの速さに、驚きました。
198名の方が亡くなりました。
その方々のことを想い作られた「198のひかり」。
198枚の窓から、奥尻の光が射し込みます。
当時、中学生の子が書いた、作文です。
外の高台には、慰霊碑がありました。
風があまりに強くて、飛ばされそうになりながら、登りました。
慰霊碑の名前は「時空翔」
地震が起きた7月12日に、震源地に向いたくぼみの中に、夕日が沈んでいく
ように作られているそうです。
黒い色はすべてを吸収する。両端は翼だそうです。
このあたりにも、たくさんの家があったそうです。
島のあちこちに、津波の高さが書かれています。
このあたりは、11.7メートルの高さまで津波がきました。
もっとも高いところは、30メートルだそうです。
もっとも被害の大きかった、青苗地区にある、「望海橋」です。
これは、もしもまた津波が来るようなことがあった場合、漁師さんたちがすぐに
避難できるように、高さのある橋を作ったそうです。
いろんなところを案内していただきながら、これからしばらく宿泊する民宿まで
送ってくださいました。
私が泊まっている部屋です。窓の外は、砂浜がある海です。
いつも、静かな波の音がしています。
窓からの景色です。
そして、部屋にはコーヒーや、ミネラルウォーター、お菓子などが、サービスで
置いてありました。嬉しかったです。
民宿のオーナーさんも、とってもよい方です。
「木村さん家」という名前の民宿です。
18:00から、絵本「ぼくは海になった」の朗読と講演会があるため、私は
会場に向かいました。
また、PTAの方が、お迎えに来てくださいました。
館内では、命展の複製画展を開催していました。
18:00、イベントがはじまりました。
はじめに、PTAの代表の方からのご挨拶。
次に「ぼくは海になった」の朗読。
そして私の講演でした。18:40~20:00です。
奥尻島のたくさんの方々が、お話を聞きにきてくださいました。
お話を聞きにきてくださった方の中に「北海道南西沖地震」を体験なさった方も
いると聞きました 。
私も、心をこめて、お話をさせていただきました。
最後に、いろいろお手伝いをしてくださったみなさんと、記念撮影。
学校の先生、教育委員会の方、PTAの方、小学生のお母さん・・など、
奥尻島のみなさん、どうもありがとうごいました。
しばらくお世話になります!
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