韓国では、ネットがうまくつながらなくて、9月18日の初日以降の
ブログ更新が出来ませんでした。
遅くなってしまいましたが、これからその後のご報告を
させていただきたいと思います。
その前に・・今回の国際平和博物館会議開催地、老斤里(ノグンリ)
について知っていただけたらと思います。
~韓国 老斤里(ノグンリ)事件~
1950年7月26日、朝鮮戦争が始まって約1ヶ月後のことです。
ヨンドン郡イムゲ里とジュゴク里の住民約500名に,
米軍から避難勧告が出されました。
「安全なところに避難させるからみんな出てくるように」
との米軍兵士の言葉に従い,住民は荷造りをして避難しました。
米軍に案内された避難民たちは,老斤里(ノグンリ)にある京釜線の鉄橋に
集まりました。米軍はこの時,避難民の荷物を検査し,芝刈り用のカマや
ノコギリなど、武器になりそうなものはすべて押収したそうです。
住民を鉄橋まで誘導した米軍兵士たちは,本部と無線連絡を取った後,
その場を離れました。
すると間もなく、米軍の戦闘機が現れ、鉄橋の上にいた避難民をめがけて
機銃掃射を始めました.逃げ惑う避難民を容赦なく銃撃しました。
人々は、鉄橋下の水路用のトンネルへと駆け込んでいきました。
米軍はすぐに、トンネルの両側の出口に機関銃を設置しました。
そして一斉射撃を加えました。
逃げ場を失った避難民たちは,理由もわからないまま死んでいきました。
トンネルの中は死体の山となりました。
それでも米軍は、3日間にわたり、60時間もトンネルに向かって
銃撃を続けたそうです。
トンネルに逃げ込まず、運よく逃げられた一部の青・壮年を除いて
すべての避難民が殺されました。
そのほとんどが、老人と子ども、女性だったそうです。
犠牲者は300人以上とされています。
死体の間で息をひそめていた人々が表に出てこられたのは、
7月29日、「米軍たちは撤退したので、安心して出てきなさい」という
北朝鮮軍兵士の声によってでした。
この出来事は、約50年近く、誰にも知られることなく、隠されてきました。
何故隠されてきたかというと、生き延びた人々がこの事実を明らかにしようと
すれば、「共産主義者」と呼ばれ、政治的な事情で投獄されてしまいます。
自分や家族の身を守るためには、黙っているしかできなかったそうです。
しかし、1994年、この虐殺で5歳と2歳の子供と奥さんを失った、
チャン・ブンヨンさんが、約50年間かけて、生き延びた人々や、
この事件を見ていた人の証言を集め、『我らの苦痛を誰が知ろう』という
本を刊行したことにより、世界に報道されるようになりました。
しかし、チャン・ブンヨンさんは、今回のノグンリ平和公園で開催された、
国際平和博物館会議を前に、急逝されました。
チャン・ブンヨンさん。
チャン・ブンヨンさんには、チャン・クドーさんという息子さんが
いらっしゃいます。
チャン・クドーさんは、現在、ノグンリ平和財団理事長をされています。
『我らの苦痛を誰が知ろう』の執筆作業を手伝い、お父さんと一緒に、
消されていた事実を表に出された方です。
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